誰かをコントロールしたくなった時、きっと意識や注意は相手へと行くでしょう。
しかし、注意を向けるのは自分自身です。
誰かをコントロールしたくなった自分に気が付き、気が付いたら、自分が今ニュートラルな考えでは無くどちらか一方に偏ってないか確認してあげてみましょう。
様々な人間関係でAちゃんとBちゃん足して割ったら調度良いのにな。と思う事はありませんか?
実はそれ、自分と他者でも同じ事が言えるのです。
誰かを働かせたいと思った時、もしかして自分ばかり働いている感覚になっていませんか。
強い不安を感じた時、自分だけが不安を背負っている感覚になっていませんか。
自分が働きを手放した時、とんでもない方向へ行ってしまう感覚になったり。
自分が不安を手放した時、とんでもない方向へ行ってしまう感覚になったりするでしょう。
あなたが働きすぎると、他者は働かなさすぎる現実が起こり、あなたが強く不安を感じると、他者は楽観的になりすぎるでしょう。まるで、それを補うかのように。
偏った者どうしを足すと、とてもニュートラルです。まるで浸透圧のようです。
コントロール欲求が増えた時、相手はコントロールできません。いくら怒っても、口をとがらせても、相手はコントロールできません。その欲求は他者も自分も苦しくなります。
なので、自分がニュートラルになってしまう方が楽でしょう。
誰かに偏りを補わされているのではありません。補ってくれているのです。
他者は鏡なのに、何故?正反対のような事が起きるのでしょう?
映し出されているのなら、何故足して割ったらニュートラルな現実が起こるのでしょう?
鏡は同じ姿を映し出しますが、右手は左手を、左手は右手を映し出します。同じ姿でありながら正反対です。鏡に映った他者は自分の正反対な部分を映し出している可能性があります。
これは偏りを否定しているのではありません。自分が望んでいない偏りの場合と、望んでいる偏りがあるからです。
偏りはとても愛らしく、かわいい存在です。誰かの偏りを誰かが補うのはとても楽しく嬉しい事だったりします。だからこそ、個性を楽しみ愛せるのだと思います。自分が見落とす部分を誰かが拾ってくれていたりします。反対側を見ていてくれるので背中を預ける事が出来ます。完璧でない自分も他者も愛おしく思えるのです。望んでいる偏りにはコントロール欲求の苦しみはありません。
しかし、他者へのコントロール欲求が増えた時は、望んでいない偏りが多い時があります。苦しい偏りです。自分が偏ってしまい来るしい現実を他者が鏡となって反対側を映し出しているかもしれません。
A.自分がニュートラルでいる事、自分の偏りを他者に補わせない。
こちらのブログやアンサーは、もしかしたら私の妄想かもしれません(o^―^o)ですが、参考になれば嬉しいです。